《サン・チャイルド》の何が問題なのか
JR福島駅近くの福島市の施設「こむこむ館」に一旦置かれたアート作品≪サン・チャイルド≫が、批判を受けて撤去されることになった件について、私の考えを書いてみます。まずその前に、この件をマスメディアが扱った報道の中で、事実関係と様々な意見が最も良く整理されていると思われる記事のリンクを。
ネット空間も飾った防護服アート 撤去に「分断疲れた」">ネット空間も飾った防護服アート 撤去に「分断疲れた」(朝日新聞デジタル )
※記事タイトルに込められた「現代のパブリックアートはネットでも鑑賞され批判され得る」という視点は面白い。また、作者のヤノベケンジ氏へのインタビューも興味深い内容ですが要ログインです。
では、私の考えを箇条書きで列挙します。
1.どんな芸術作品であっても、表現の自由の観点から、可能な限り(具体的には他者の人権を侵害しない限り)展示を妨げられないのが大原則。この原則を崩すには、他者への相応の加害の事実が必要。
2.一方、この作品は地方自治体に寄贈されていて、設置場所等を決める権限や責任は首長にあるので、福島市長が予算の範囲内で市の施設への設置を独断で決めたとしても法的には問題なく、逆に今回のように政治的状況を勘案して撤去を決めたこと或いはその手続きへの異論はない(本項は表現の自由とは別次元の問題)。
3.防護服らしき黄色いコスチュームは「福島は放射能汚染がひどい」的デマを想起させるからダメ、という趣旨の撤去賛成派の主張を良く見かける。しかし、ヘルメットは脱いでいるので、「被曝を一時的に心配したけど実際には平気だったね」と捉えることも可能なのに、彼らは何故そう解釈できないのか?(これは下記の7の項目に繋がる論点)
4.作品への批判的意見のうち、「風評被害を増長する」という懸念については、震災後数年間ならばいざ知らず、7年以上経過して原発事故に関する世論が定着し福島県産農産物も普通に流通するようになった現在ではほぼ杞憂であろう。
5.作品への批判のうち、唯一考慮すべき主張は、医学的ケアを要するほどのトラウマ反応を危惧する意見である。【参考リンク】医師の堀有伸氏のFacebookコラムの項目3.
ただし、だからと言って短絡的に撤去が望ましいと結論してはならない。
6.この作品に限らない一般論として、パブリックアートは不特定多数の人々の目に入るものなので、見る人によっては作者が意図しない解釈で作品を捉える可能性があることを、作者や設置者は常に意識するのが賢明。
7.過去に物議を醸した幾つかのアート作品と異なり、《サン・チャイルド》は作品それ自体に問題があるわけではなく、騒動の原因は福島第一原発事故後の政治的な対立と分断に他ならない。仮定の話として、そのような政治的対立を抜きにして作品を眺めたならば、これほどまでに問題視される理由は見当たらない。表現の自由が政治的な状況(一般に、政治には唯一の正解などありません!)によって曲げられたことが極めて残念である。
以上より、《サン・チャイルド》という作品に関する私の主張を端的に書くと……
《サン・チャイルド》を撤去すべきだったか否かは即断できない。しかし、作品そのものには全く罪が無い。原発事故後の政治的な争いに過剰に囚われた人々が、その固定観念のフィルターを通して眺めることで作品に暴力性を見出している。
となります。
以下の追記では、上記1.~7.について補足します。項目によっては長文になりそうです。
上記1.の補足から。表現の自由の重要性に異論はないでしょう。ここでの自由とは、具体的には、原発事故に縁がある地域に作品を展示したいと願ったであろう作者、および作品を寄贈された福島市および福島市長が、展示したい場所に作品を置く自由です。この自由が阻害されるには、他者の何らかの人権が脅かされている必要があるわけですが、それが何であるかを論じるのが項目3.~5.になります。
なお、「公共空間における表現や公共団体が設置した作品は表現の自由の枠外」という類の意見には絶対に同意できません。何故なら、日本国憲法第21条に「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」とあるからです。
2.について。作品は「こむこむ館」前からは既に撤去され、福島市が当面保管しています。現在の情勢を考えると、福島市内で展示するなら、不特定多数の目に触れない美術館等の施設に移設&当面常設するのが妥当な落としどころでしょう。その場合は作品の大きさがネックになるかも知れませんが、寄贈を受けた側の責任として、福島市長には様々な障害を乗り越えて展示実現への最大限の尽力をお願いしたいところです。
3.については7.と合わせて後ほど触れます。
4.は微妙な論点なので私の主張を絡めてやや詳しく書きます。私自身は福島第一原発事故から現在に至るまで一貫して原発再稼動許容派です。Twitterを始めてから数年(2012~2014年頃)の間は、Twitter上に見られる「フクシマにはもう住めない」という類の放射線被曝デマに心を痛めました。そして、2014年に起きた『美味しんぼ』作中の被曝鼻血デマ事件には当然批判的な立場でした。何故なら、この頃は原発事故や被曝に関する世論が未だ不安定で、デマが風評被害拡大(すなわち福島県への経済的被害増加)を引き起こす可能性が高いと判断していましたし、何より福島県産農産物が首都圏にまともに流通していないのが一消費者として大いに不満だったのです。ところが、それから数年たった現在、福島県産農産物は普通に流通しています。これは原発事故への世間の認識が安定してきたことの現れでしょう。この状況で、防護服を纏った美術作品が公共空間に現れても、「だから福島には行かない、農産物は買わない」と言う人が現在よりも有意に増えるとは思えません。この点で、撤去賛成派はこの作品による影響を過大評価していると言えそうです。以下は推測ですが、作者のヤノベケンジ氏は、もしかしたらこのように考えた末に、今ならば福島市での展示も大丈夫と踏んだのかも知れません。結果的には大丈夫でなかった見通しの甘さを批判する意見も見受けられますし、作者も既にこの点を謝罪しています。
ここで少しだけ《サン・チャイルド》から話が逸れます。赤木智弘氏は福島第一原発事故に関する風評被害の現状を「過去の怪物の幻影」と表現しています。言い得て妙。
【参考リンク】風評被害の正体とは(ただし引用した箇所は有料部分)
過去の幻影ではあるものの、時折何かの拍子で現在に向かって牙を向くことも指摘されています。
風評被害関連の状況が数年前と変わってきている今、極端なデマ的反原発論を叩く意義は薄れていると思います。逆に、下手な批判によって対立や分断を煽るだけに終わるリスクすらあります。現在に至ってもなお非科学的な反原発論を見つけて叩きまくる勢力は、風評被害拡大を過剰に恐れているのではないかと。数年前に被曝を過剰に恐れていた人達と同レベルに見えます。この勢力が、この度の美術作品排除に大きな役割を果たしたことは、決して忘れません。
話をサン・チャイルドに戻します。上記5.のトラウマとは、不愉快や怒りや嫌いというレベルの話では勿論ありません。大多数の人には問題ないレベルのストレスであっても、メンタルが弱くなっている人や精神疾患の人がそれによって深刻な症状に見舞われる可能性は少なからずあります。私が「作品を撤去するべきではなかった」と断言しない理由は正にこれです。とは言え、トラウマ反応の可能性だけで撤去は妥当と即断するのも如何なものか。最近話題になった別件を例にとるなら、過去に性犯罪被害に遭った人が、「18禁ではないものの性的虐待を連想し得る絵」を書店の店頭やネット等で不意に目にしてトラウマ反応に見舞われる可能性はあります。別の例として、犬に噛まれて怪我を負った経験がある人が、街中で犬を見かけて精神的にショックを受ける可能性もあるでしょう。だからと言って“萌え絵”や犬の外出を禁止せよという要求が通るか?と考えると話はそう簡単ではありません。
6.に関連して思うことが1つ。今回の設置に関して、作者が作品に関して特定の解釈を示さず、更に設置者も「復興のモニュメント」的なことを一切言わずに設置を進めていれば、例えば市への作品の寄贈に貢献した団体の政治思想が気に入らない等の理由で作品に目を付けられる可能性は幾分低かったのかも知れません。また、作品の胸部の線量計らしきものが「000」なのは非科学的、という類の言いがかりも回避できたかも知れません。モニュメントではなくあくまでアート。アートは科学や現実を写実するためのものではありません。
なお、私は政治的理由(特定の思想が気に入らない等)で作品撤去を正当化する言論には断固不同意です。その場合、まずは思想への批判を優先すべきでしょう。表現の自由は可能な限り守られるべきだからです。
7.も微妙な論点。補助線として、過去に物議を醸した幾つかの作品を振り返ってみましょう。
今回の騒動が報じられて以降、2009年にChim↑Pomが原爆ドーム上空に飛行機雲で「ピカッ!」を描いたパフォーマンスアートを《サン・チャイルド》と比較する意見を複数見かけました(参考リンク)。確かに、政治的なタブー性を孕むテーマを扱っている点は良く似ています。ただ、私には両作品はかなり違う面があると感じられました。当初は、刹那的パフォーマンスアートと造形作品の違いかと思っていましたが、後になってからもっと重要な違いに気づきました。Chim↑Pom作品は、鑑賞者に「広島原爆で多数の人が亡くなった」くらいの予備知識さえあれば、原爆の炸裂とそれによる甚大な被害と悲劇を連想することは明らかでしょう。一方、≪サン・チャイルド≫はどうでしょう? ここで思考実験をします。作品は2011年の福島第一原発事故を受けて同年に制作されたという予備知識のみで作品を眺めると想定してみます。今回は福島市での展示ということで、「事故直後は放射線の影響が心配されたものの、結局は少なくとも福島市内では健康被害を心配することなく普通に生活できる」程度の常識的予備知識を追加しても良いでしょう。以上の前提で作品を見てみましょう。子供は防護服らしきものを着てはいるもののヘルメットは脱いでいて、被曝の心配はしていないようです。福島市の実状と何ら矛盾しません。ここから悲劇を連想するのは難しそうです。
《サン・チャイルド》と同様に“抗議で撤去されたパブリックアート”の前例としては、1980年代のNYにおけるリチャード・セラの「傾いた弧」があります。
【参考リンク】パブリックアートとは何か(「Dessin」)
この件では通行の邪魔等の被害が訴えられました。政治性は無いものの、作品そのものの物理的属性が問題視されたわけです。
表現の自由を曲げるためには、作品が何らかの加害性を持つ必要がありますが、既に述べた通り、≪サン・チャイルド≫という作品そのものの加害性は本来ほぼ皆無だったと思われます。では、何故少なからぬ人がこの作品に加害性を見出すのか? その原因は、原発事故後数年間に亘る政治的対立に他ならないと私は考えます。それ故に“防護服すなわち風評被害”的な条件反射的連想が引き起こされるのでしょう。「福島には住めない」的デマを流した者のせいなのか。反原発への罵倒的攻撃(まともな批判とは区別します)を繰り広げた勢力が悪いのか。今回の騒動で作者のヤノベケンジ氏は謝罪を表明しています(参考)が、私見では、政治的対立によって作品に加害可能性を付与してしまった人々が作家に謝罪する方が筋が通ると思っています。
最後になりますが、私は《サン・チャイルド》という作品が特に好きなわけではありませんが、モニュメントの枠に収まらない(収めてはならない)秀逸なアートだと思っています。美術作品が政治的争いの犠牲となったことがただただ残念です。
【参考リンク(2018.10.23追加)】
この問題を語る上で読み逃してはならないと思われる2つの記事をリンクします。
まずは撤去賛成派を代表する記事から。
防護服を着た子供像「サン・チャイルド」は、なぜ福島で炎上したのか(林智裕氏)
撤去賛成派であり「被曝デマを徹底的に叩く派」でもある著者による記事。撤去派の主張の中で「住民の苦痛」を中心に据えた構成は見事(上述の通り、私は撤去に値する理由はそれしか無いと思っているので)。なお、勿論このブログエントリも、林氏の記事を読んだ上で書いています。
そして、最近になって発表された美術関係者によるまとまった論考を。
拒絶から公共彫刻への問いをひらく:ヤノベケンジ《サン・チャイルド》撤去をめぐって(小田原のどか氏)
記事中で言及されている長崎の母子像の件は、作品を拒絶する側の論拠の背景に特定の思想がある(言い換えれば、誰でも認識できる拒絶理由がない)という点で、確かに《サン・チャイルド》とかなり似ています。
ネット空間も飾った防護服アート 撤去に「分断疲れた」">ネット空間も飾った防護服アート 撤去に「分断疲れた」(朝日新聞デジタル )
※記事タイトルに込められた「現代のパブリックアートはネットでも鑑賞され批判され得る」という視点は面白い。また、作者のヤノベケンジ氏へのインタビューも興味深い内容ですが要ログインです。
では、私の考えを箇条書きで列挙します。
1.どんな芸術作品であっても、表現の自由の観点から、可能な限り(具体的には他者の人権を侵害しない限り)展示を妨げられないのが大原則。この原則を崩すには、他者への相応の加害の事実が必要。
2.一方、この作品は地方自治体に寄贈されていて、設置場所等を決める権限や責任は首長にあるので、福島市長が予算の範囲内で市の施設への設置を独断で決めたとしても法的には問題なく、逆に今回のように政治的状況を勘案して撤去を決めたこと或いはその手続きへの異論はない(本項は表現の自由とは別次元の問題)。
3.防護服らしき黄色いコスチュームは「福島は放射能汚染がひどい」的デマを想起させるからダメ、という趣旨の撤去賛成派の主張を良く見かける。しかし、ヘルメットは脱いでいるので、「被曝を一時的に心配したけど実際には平気だったね」と捉えることも可能なのに、彼らは何故そう解釈できないのか?(これは下記の7の項目に繋がる論点)
4.作品への批判的意見のうち、「風評被害を増長する」という懸念については、震災後数年間ならばいざ知らず、7年以上経過して原発事故に関する世論が定着し福島県産農産物も普通に流通するようになった現在ではほぼ杞憂であろう。
5.作品への批判のうち、唯一考慮すべき主張は、医学的ケアを要するほどのトラウマ反応を危惧する意見である。【参考リンク】医師の堀有伸氏のFacebookコラムの項目3.
ただし、だからと言って短絡的に撤去が望ましいと結論してはならない。
6.この作品に限らない一般論として、パブリックアートは不特定多数の人々の目に入るものなので、見る人によっては作者が意図しない解釈で作品を捉える可能性があることを、作者や設置者は常に意識するのが賢明。
7.過去に物議を醸した幾つかのアート作品と異なり、《サン・チャイルド》は作品それ自体に問題があるわけではなく、騒動の原因は福島第一原発事故後の政治的な対立と分断に他ならない。仮定の話として、そのような政治的対立を抜きにして作品を眺めたならば、これほどまでに問題視される理由は見当たらない。表現の自由が政治的な状況(一般に、政治には唯一の正解などありません!)によって曲げられたことが極めて残念である。
以上より、《サン・チャイルド》という作品に関する私の主張を端的に書くと……
《サン・チャイルド》を撤去すべきだったか否かは即断できない。しかし、作品そのものには全く罪が無い。原発事故後の政治的な争いに過剰に囚われた人々が、その固定観念のフィルターを通して眺めることで作品に暴力性を見出している。
となります。
以下の追記では、上記1.~7.について補足します。項目によっては長文になりそうです。
上記1.の補足から。表現の自由の重要性に異論はないでしょう。ここでの自由とは、具体的には、原発事故に縁がある地域に作品を展示したいと願ったであろう作者、および作品を寄贈された福島市および福島市長が、展示したい場所に作品を置く自由です。この自由が阻害されるには、他者の何らかの人権が脅かされている必要があるわけですが、それが何であるかを論じるのが項目3.~5.になります。
なお、「公共空間における表現や公共団体が設置した作品は表現の自由の枠外」という類の意見には絶対に同意できません。何故なら、日本国憲法第21条に「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」とあるからです。
2.について。作品は「こむこむ館」前からは既に撤去され、福島市が当面保管しています。現在の情勢を考えると、福島市内で展示するなら、不特定多数の目に触れない美術館等の施設に移設&当面常設するのが妥当な落としどころでしょう。その場合は作品の大きさがネックになるかも知れませんが、寄贈を受けた側の責任として、福島市長には様々な障害を乗り越えて展示実現への最大限の尽力をお願いしたいところです。
3.については7.と合わせて後ほど触れます。
4.は微妙な論点なので私の主張を絡めてやや詳しく書きます。私自身は福島第一原発事故から現在に至るまで一貫して原発再稼動許容派です。Twitterを始めてから数年(2012~2014年頃)の間は、Twitter上に見られる「フクシマにはもう住めない」という類の放射線被曝デマに心を痛めました。そして、2014年に起きた『美味しんぼ』作中の被曝鼻血デマ事件には当然批判的な立場でした。何故なら、この頃は原発事故や被曝に関する世論が未だ不安定で、デマが風評被害拡大(すなわち福島県への経済的被害増加)を引き起こす可能性が高いと判断していましたし、何より福島県産農産物が首都圏にまともに流通していないのが一消費者として大いに不満だったのです。ところが、それから数年たった現在、福島県産農産物は普通に流通しています。これは原発事故への世間の認識が安定してきたことの現れでしょう。この状況で、防護服を纏った美術作品が公共空間に現れても、「だから福島には行かない、農産物は買わない」と言う人が現在よりも有意に増えるとは思えません。この点で、撤去賛成派はこの作品による影響を過大評価していると言えそうです。以下は推測ですが、作者のヤノベケンジ氏は、もしかしたらこのように考えた末に、今ならば福島市での展示も大丈夫と踏んだのかも知れません。結果的には大丈夫でなかった見通しの甘さを批判する意見も見受けられますし、作者も既にこの点を謝罪しています。
ここで少しだけ《サン・チャイルド》から話が逸れます。赤木智弘氏は福島第一原発事故に関する風評被害の現状を「過去の怪物の幻影」と表現しています。言い得て妙。
【参考リンク】風評被害の正体とは(ただし引用した箇所は有料部分)
過去の幻影ではあるものの、時折何かの拍子で現在に向かって牙を向くことも指摘されています。
風評被害関連の状況が数年前と変わってきている今、極端なデマ的反原発論を叩く意義は薄れていると思います。逆に、下手な批判によって対立や分断を煽るだけに終わるリスクすらあります。現在に至ってもなお非科学的な反原発論を見つけて叩きまくる勢力は、風評被害拡大を過剰に恐れているのではないかと。数年前に被曝を過剰に恐れていた人達と同レベルに見えます。この勢力が、この度の美術作品排除に大きな役割を果たしたことは、決して忘れません。
話をサン・チャイルドに戻します。上記5.のトラウマとは、不愉快や怒りや嫌いというレベルの話では勿論ありません。大多数の人には問題ないレベルのストレスであっても、メンタルが弱くなっている人や精神疾患の人がそれによって深刻な症状に見舞われる可能性は少なからずあります。私が「作品を撤去するべきではなかった」と断言しない理由は正にこれです。とは言え、トラウマ反応の可能性だけで撤去は妥当と即断するのも如何なものか。最近話題になった別件を例にとるなら、過去に性犯罪被害に遭った人が、「18禁ではないものの性的虐待を連想し得る絵」を書店の店頭やネット等で不意に目にしてトラウマ反応に見舞われる可能性はあります。別の例として、犬に噛まれて怪我を負った経験がある人が、街中で犬を見かけて精神的にショックを受ける可能性もあるでしょう。だからと言って“萌え絵”や犬の外出を禁止せよという要求が通るか?と考えると話はそう簡単ではありません。
6.に関連して思うことが1つ。今回の設置に関して、作者が作品に関して特定の解釈を示さず、更に設置者も「復興のモニュメント」的なことを一切言わずに設置を進めていれば、例えば市への作品の寄贈に貢献した団体の政治思想が気に入らない等の理由で作品に目を付けられる可能性は幾分低かったのかも知れません。また、作品の胸部の線量計らしきものが「000」なのは非科学的、という類の言いがかりも回避できたかも知れません。モニュメントではなくあくまでアート。アートは科学や現実を写実するためのものではありません。
なお、私は政治的理由(特定の思想が気に入らない等)で作品撤去を正当化する言論には断固不同意です。その場合、まずは思想への批判を優先すべきでしょう。表現の自由は可能な限り守られるべきだからです。
7.も微妙な論点。補助線として、過去に物議を醸した幾つかの作品を振り返ってみましょう。
今回の騒動が報じられて以降、2009年にChim↑Pomが原爆ドーム上空に飛行機雲で「ピカッ!」を描いたパフォーマンスアートを《サン・チャイルド》と比較する意見を複数見かけました(参考リンク)。確かに、政治的なタブー性を孕むテーマを扱っている点は良く似ています。ただ、私には両作品はかなり違う面があると感じられました。当初は、刹那的パフォーマンスアートと造形作品の違いかと思っていましたが、後になってからもっと重要な違いに気づきました。Chim↑Pom作品は、鑑賞者に「広島原爆で多数の人が亡くなった」くらいの予備知識さえあれば、原爆の炸裂とそれによる甚大な被害と悲劇を連想することは明らかでしょう。一方、≪サン・チャイルド≫はどうでしょう? ここで思考実験をします。作品は2011年の福島第一原発事故を受けて同年に制作されたという予備知識のみで作品を眺めると想定してみます。今回は福島市での展示ということで、「事故直後は放射線の影響が心配されたものの、結局は少なくとも福島市内では健康被害を心配することなく普通に生活できる」程度の常識的予備知識を追加しても良いでしょう。以上の前提で作品を見てみましょう。子供は防護服らしきものを着てはいるもののヘルメットは脱いでいて、被曝の心配はしていないようです。福島市の実状と何ら矛盾しません。ここから悲劇を連想するのは難しそうです。
《サン・チャイルド》と同様に“抗議で撤去されたパブリックアート”の前例としては、1980年代のNYにおけるリチャード・セラの「傾いた弧」があります。
【参考リンク】パブリックアートとは何か(「Dessin」)
この件では通行の邪魔等の被害が訴えられました。政治性は無いものの、作品そのものの物理的属性が問題視されたわけです。
表現の自由を曲げるためには、作品が何らかの加害性を持つ必要がありますが、既に述べた通り、≪サン・チャイルド≫という作品そのものの加害性は本来ほぼ皆無だったと思われます。では、何故少なからぬ人がこの作品に加害性を見出すのか? その原因は、原発事故後数年間に亘る政治的対立に他ならないと私は考えます。それ故に“防護服すなわち風評被害”的な条件反射的連想が引き起こされるのでしょう。「福島には住めない」的デマを流した者のせいなのか。反原発への罵倒的攻撃(まともな批判とは区別します)を繰り広げた勢力が悪いのか。今回の騒動で作者のヤノベケンジ氏は謝罪を表明しています(参考)が、私見では、政治的対立によって作品に加害可能性を付与してしまった人々が作家に謝罪する方が筋が通ると思っています。
最後になりますが、私は《サン・チャイルド》という作品が特に好きなわけではありませんが、モニュメントの枠に収まらない(収めてはならない)秀逸なアートだと思っています。美術作品が政治的争いの犠牲となったことがただただ残念です。
【参考リンク(2018.10.23追加)】
この問題を語る上で読み逃してはならないと思われる2つの記事をリンクします。
まずは撤去賛成派を代表する記事から。
防護服を着た子供像「サン・チャイルド」は、なぜ福島で炎上したのか(林智裕氏)
撤去賛成派であり「被曝デマを徹底的に叩く派」でもある著者による記事。撤去派の主張の中で「住民の苦痛」を中心に据えた構成は見事(上述の通り、私は撤去に値する理由はそれしか無いと思っているので)。なお、勿論このブログエントリも、林氏の記事を読んだ上で書いています。
そして、最近になって発表された美術関係者によるまとまった論考を。
拒絶から公共彫刻への問いをひらく:ヤノベケンジ《サン・チャイルド》撤去をめぐって(小田原のどか氏)
記事中で言及されている長崎の母子像の件は、作品を拒絶する側の論拠の背景に特定の思想がある(言い換えれば、誰でも認識できる拒絶理由がない)という点で、確かに《サン・チャイルド》とかなり似ています。